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社会問題研究所

社会現象の考察。政治、経済、科学、文化など。  このサイトはリンクフリーです。

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学校を批判的に語る

 学校とはそんなに素晴らしいものかという疑問がある。学校は、個性を伸ばすものではなく、画一化されたことを訓練する場所になっている。教科の学習だって世の中いろいろなテーマがあるが、決められたことをする場所であるし、制服とか組体操とかの団体行動、そんなの家業を継いだり起業するので関係ないという人もいるであろう。

 では、訓練する教科の内容、国語でも数学でも体育でも構わないのだが、画一化されたことを訓練するとしているその内容、テーマ、たとえ自分が選んだものでなかったとしても、学校のおかげでよくできるようになるかというと、教えている人が色々いて色々な授業があれば全てがそうだと言えるか言えないかという議論はおいておいても、できるように指導する力がないあるいは指導していないその他何であれ、できるように指導がなされていない傾向にあるのではなかろうか。要するに例えば、遅刻するなとか言って時間を拘束しておいて、遅刻しようがしまいが説明が下手だから聞いても無駄なので関係ないとか時間を奪われただけで無意味な時間とかということがあるかもしれないということである。

 では、学校に残る価値は何であろうか。高校や大学で言えば、単位や卒業証書を発行することであろう。例え、自分が本当にやりたいことではなく、しかも指導力が無く時間を奪われるだけで無意味であっても、大学でいえば学位を授与する機構としての役目を果たし、時間を奪い無意味な時間を過ごさせた迷惑料としてせめて学位を授与することに存在意義があるのではなかろうか。

 学校の教員にしろその他の従業員にしろ、その人がいるからその学校を選んで入ったというような従業員って何人いるだろうか。入ったところにたまたまその人がいたというだけではなかろうか。例えば大学の場合、客が大学という法人と契約したら、その大学の使用人あるいは使用人のようなものにあたるものとしての従業員が担当者としてでてきたということであって、ではその従業員を信用できるかといったらできるかもしれないしできないかもしれない、それが当然ではなかろうか。

 それに、学校の教員自体、小学校、中学校、高校でやっていることなんかそれをもっと発展させてたことをしている人は世の中にいるし、そこでやっているのと似たことを習い事で教えていたり、そこでやっている内容なんかわかっている人は世の中にたくさんいる。大学の場合もそこでやっていることと似たようなことを仕事などで扱っている人は世の中にいるであろう。習い事に関して、受験勉強も含め、習い事の方が教えるのがうまいと思っている人もいるであろう。だから、学校の教員って実はそんなにすごいものではない。

 学校の教員はすごくないくせに、成績決定や単位発行を決めるから力がある。アカデミックハラスメントもある。学校の教員から成績決定や単位発行をとったら、学校の教員をまともに相手にしたい人なんかどれだけいるのであろうか、相手にしたい人が減ることはかなりの可能性で確かであろう。

 さて、子供の数が減り、需給バランス、少ないものの価値は上がり多いものの価値は下がるということで、学校利用客の力が増大し、学校及び学校従業員の力が下がるということが起こっているのであろう。もちろん、学校及び学校従業員にも主張はあるかもしれない。しかしながら、学校利用客の力が上がり、学校及び学校従業員の力が下がるなか、学校及び学校従業員の問題点が取り上げられやすくなるのであろう。学校及び学校従業員の価値を低くみなす人もでているのであろう。

 モンスターペアレントと呼ばれる人、そのそれぞれの行為が正当か不当かの議論はここではしないし、本当にモンスターかそうでないかの議論もここではしないし、従ってモンスターペアレントと言われている各行為を推奨するかやめるよう言うかという議論もここではしない。ただ、モンスターペアレントと呼ばれる人が出現している背景には、学校利用客の力が上がり、学校及び学校従業員の力が下がり価値が低下したということがあるであろう。
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学校利用者(学生)の学校に対する考え方

学校の客(学生)は、自分の権利について考えた方が良い。授業料を払ってあるいは行政からのサービスの一環で税金から運営されているサービスで、その内容を習う権利があるわけである。学生は学校の客であって、授業料を払っている場合スーパーで買い物をするのと同じく購入をしているわけである。買い物であったり行政が行うサービスであったりするわけだ。

 しかし、学校の成績が次の進路で使われるとか履歴書に卒業と書くとかで、正しいことを言ってもそれが学校からの弾圧の対象になるかもしれない。だから、どう行動するかはよく考えた方が良いかもしれない。

 しかしながら、学生はサービスを買った客であったり、あるいは行政のサービスを受けているのだという意識をもっていると、違った見方ができるかもしれない。自分がどう思いどう行動するかで学校が変わるかもしれない。例えば大学教員による客への意見の押しつけいう、大学教員が客に意見を押しつけるのが実態の大学教員のための学問の自由がなくなるかもしれない。しかし、正しいことでも学校から弾圧され、不利益を被るかもしれない。なのでどう行動するかはよく考えた方が良いかもしれない。

異文化研究者ってすごい人なの?

外国文化のように、一般的な日本文化とは異なる文化の研究者、優れた人なのだろうか。日本であれ外国であれ、今はなくなり過去のものとなった文化、これは、外国の現地の人だってもはや自分の生活の中にある文化ではなくなっている。しかし、現代の文化、これは、外国の現地の人の人生の中にある文化である。

 現代の外国文化、これをいくら研究して文化学者と言ってみても、どこまでいったって本家の現地の人の方が自分がやっていることで優れているに決まっている。仮に大学教授とかいってみても、普通に暮らしている現地の人の方がその内容に対して優れている。

 今の時代、旅行したり、インターネットで情報を発信したり、文化学者がそうだといった内容しか情報がなく、情報統制できる時代ではない。大学の異文化研究者よりも現地の人の方がその文化に詳しく、インターネットで情報を得たり、実際現地に行ってそこの人に会うことができるのだったら、異文化研究者の価値は低下するしかないだろう。

学校の従業員は考え方を改めるべき

学校の従業員は考え方を改めるべきだ。今、習い事で多くのことを学べる。学校でなくても学べるのだ。インターネットもある。このように、学校以外の学習と学校の提供するサービスが比較評価される時代である。

 大学でアカデミックハラスメントなんてやっている場合ではないのだ。しっかりとしたサービスを提供しないと、品質が悪いとの評価になるのだ。

 意識改革として、まず、客である学生に対し、朝来たら校門に並んで、おはようございます、ようこそお越しくださいましたと挨拶し、帰りにはお気をつけておかえりくださいと挨拶し、しっかりと客にサービスをしないといけないという意識付けから始めるべきではなかろうか。

英語とどう向き合うべきかーさよなら売国英語教育ー

英語といった時日本ではアメリカ英語かイギリス英語を主に考えるのではなかろうか。ネイディブということでは、アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドであろう。その中でアメリカとイギリスがでてくるということは、アメリカが日本に大きく影響を与えるということと、イギリスでもともと英語を使っていて、さらにイギリスも日本にそれなりに影響があるということがあるのであろう。

 今の時代、世界で共通で使う言語といったら現実的には英語であろう。それは、アメリカ英語やイギリス英語ではなく、意思疎通ができるような言語という意味である。もはやアメリカ英語とかイギリス英語とかそういう意味での英語ではなく、意思疎通ができるかどうかがポイントとなる。インドで現地の人と話すときはインド訛りの英語と会話できるかそれが問題であろう。どの英語も英語である、そういうことだろう。
 そもそもアメリカ英語でもイギリス英語でも、何かの英語を基準とすると、それ以外の人はその時点で不利になる。言語が違い重要な場合は、通訳をつけるべきではなかろうか。

 英語を第二公用語とするべきか、カナダはケベック州のようなフランス語を使う人が多くいる地域があるし、インドは他言語社会で英語は共通で使えるようにというのは一つの考え方だろう。
 日本は文化的にネイティブとして英語を話す人は少ない。だから第二公用語にする必要はない。それよりも方言に注目すべきだ。地域によって日本語だって違う。全部日本語だ。しかし日本語同士でも通じないとまずい。だから方言(地域的日本語)とは別の多くの人がわかる共通日本語があるのは仕方ないであろう。

 英語を使えないと不利ではないかという意見があるかもしれない。だったら英語力を強化すれば良いのだ。しかし、その英語、アメリカ英語が頂点とかイギリス英語が頂点とか、そんなのではまずい。使えれば良いのだ。意思疎通できれば良いのだ。アメリカ英語を基準にすると、アメリカ英語を使う人とやりとりする時言語で既に負けてしまう。イギリス英語を使う人がでてくると、アメリカ人とイギリス人の間ではアメリカ英語とイギリス英語の違いですむ話が、日本人とイギリス人だとアメリカ英語とイギリス英語の違いもネイティブなんでイギリス人が正しいでは、言語の時点で負けてしまう。ネイティブもノンネイティブも第二公用語も関係なし、意思疎通できれば良い、こうあるべきであろう。
 日本が日本語社会であることは、日本語を使える人が日本では優位であり、これは一つの強みである。外国人旅行客向けに多少翻訳表示があるのは、経済的戦略としてあっても良く、しかし日本は日本語社会で英語は少数言語であろう。これは日本語を使う人が日本で生きるには強みであろう。日本で英語に日本語と対等の地位を与え英語を使えない方が学習不足のようになると日本語を使っている人の強みが崩れるであろう。

 英語といっても、イギリス英語とかアメリカ英語とかオーストラリア英語とか、地域的な生活の言語を世界共通語にすべきではない。そんなことをしたら、例えばオーストラリア英語を世界標準にすればオーストラリア人が有利になる。そうではなく、現実問題として世界の多くの人が話せる言語という意味で、ネイティブもノンネイティブも第二公用語も関係なく、お互い通じればよい英語、そういう英語を世界で使うべきであろう。そして、重要なことには通訳をつける。
 日本で日本語を使う場合でも、どこかの分からない方言の日本語を共通語日本語として、それが分からないやつが悪いとなったら困るであろう。英語だってどこかの地域の英語を世界共通としてそれが分からないやつが悪いでは言語で有利不利ができてしまう。
 むしろ、日本人英語を世界に広めて理解してもらうのだという姿勢が必要なのではなかろうか。

 英語以外の外国語の話をしよう。どこかの国に行くから住むからとかそこの国の文化を知りたいとかいう意味では、その地域で使われる言語を知るというのはありうるであろう。どこにいってもとりあえず通じる可能性が高いとか道を聞ければ良いとか文化的意味はなくとにかく意思疎通としての英語ではなく、そこの地域のことを知りたいという文化的な意味でその地域の言語ということでは、学ぶのは方言も地域的表現も入ったある言語になるであろう。それがロシア語なのかタイ語なのかたまたま英語なのか日本の中のある地域の方言の日本語なのか、それはその時の問題であろう。

 地域での文化的生活を根ざしたある地域の英語を、単に多くの人と意思疎通できればよいただの道具としての英語とを間違うことなく、単に多くの人と意思疎通すればよい時にどこかの地域の英語を崇拝して言語で敗北することなく、自分の日本人英語にしっかりと自信を持つことが重要であろう。

 ネイティブの英語が偉い、どこまでいっても日本人は下で学ぶのだ、仮にそれが学校教育の英語教育であるならば、それは売国英語教育になるであろう。

意見

自分が評価すれば、評価した対象の社会での影響力・価値が上がる。どう評価するかは基本的に自分次第。 個人の力が弱いのは、経済的基盤が原因の一つ。良い店や、小さな店で買い、そこへお金が流れるようにすれば、社会が良くなったり、個人の経済的基盤が強くなって各個人の力が強くなるであろう。

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