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社会問題研究所

社会現象の考察。政治、経済、科学、文化など。  このサイトはリンクフリーです。

弁護士は警戒すべき対象かもしれない

弁護士には悪い弁護士がいる。弁護士に関する悪い情報からして、弁護士と聞くと、信用できるとか難しい試験に受かったであろう偉い人とかそんな評価ではなく、むしろ、被害を受けないか警戒すべき存在かもしれない。弁護士による被害をもし自分が受けたとなるとたまったものではないだろう。

 弁護士にもし関わったら、法律知識を利用してわなにはめたりとか、金をとる方法を練っていたりとかして被害を受けないかそこのところはどうだろうか。弁護士に関する悪い情報からして、もはやどんな弁護士がいるか、とんでもない弁護士がいるかもしれないと思っておいた方が安全な気がする。例えば、弁護士とデートをすると、そこからセクハラだとかそういうわなにはめて、金を請求してきたりとかそんなこと起こらないだろうか、そういうことを思ったりもする。弁護士は本当に警戒すべき対象のように思う。法律を使って何をしてくるか分からない、そう思えてくるのが弁護士に関する感想である。

 弁護士をどう考えるか、それは一人一人の問題だ。
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お金を使う技術

お金を持っても、それが必ずしもいいこととは限らない。例えば、化粧品による健康被害をもし受けたら、金がなければ買えなかったわけだ。仮に賠償金をもらっても、健康の方が賠償金よりも大切だと私は思う。医療によって死んだ人も、金がなければその医療を受けずにすんだとなるかもしれない。このように、金がない方が良かったとなるかもしれないことを考えることができるのではなかろうか。

 もちろん、お金があればあんな有意義なことができるのに残念となる場合もあり得るだろう。従って、お金を持っても、いかに有効利用する能力があるかが重要ポイントとなってくるのではなかろうか。

 お金を持っていること自体、安心感とか、信用につながることもあるかもしれない。しかし、泥棒に狙われるかもしれないということも考えることができるだろう。

 お金持ちが寄付したということがあるかもしれないが、それはどのような狙いだろう。純粋な思いかもしれないし、税金対策が何かあるのかもしれないし、良い人のように見せる作戦かもしれないし、良いイメージのすることに自分の名前をつけてこの人のおかげでこれがありますとしたいのかもしれない。

 寄付した先にお金をどう使って物事を実現させるかは任せる場合、自分でそのお金を使い実際に自分が良いと思っていることに関わってやっていくわけではない。すると、自分の思うようになるかという問題があるし、結局自分ではそのお金を有効利用せずに誰かに目的を決めたとしても渡すことになり、自分で完全に使っていることにはならないだろう。能力がないのか時間がないのかその他何にしろ、自分でお金を完全には有効利用しきれていないわけだ。

 それぞれの人、一人一人いったいいくらあれば幸せに暮らすことができるのだろうか。

従業員によるインターネットへの不適切投稿

従業員によるインターネットへの不適切投稿、これはその組織の経営陣に経営能力がないということになる。使い捨て労働とか、賃金を安くするとか、教育を少なくするとか、そういう方向にすると、そういう労働になる可能性がある、個々の場合にその中でどれか当てはまるものがあるかどうかは知らないが。どういう条件で労働していたのかは知らないが、労働と関連してインターネットに不適切な投稿をするようなそういう働かせ方をしていたわけである。結果がそういうことだ。
 たとえインターネットへ不適切投稿をする従業員が悪かったとしても、従業員だけを非難していると、何か失敗したらどんどん従業員が責められる社会になる可能性がある。例えば、学校教員がプールの水の閉め忘れを弁償、失敗して弁償、こればもっと進むと即免職とかさらに謝罪広告を自費で掲載しろという社会になるかもしれない。そして、その感覚が他の仕事にも及ぶ可能性がある。
 経営陣が従業員によるインターネットへの不適切投稿が起こるように経営しているわけだ。経営陣に責任があるのだ。

すごいところに就職

過労死した人を侮辱するつもりはない、過労死でなくても仕事で病気になったとかでも侮辱するつもりはない。しかし、そんなすごいところに就職した、すなわち世間的に見栄えが良いところに就職したとしても、それがそうなってもそこへ行きたかったそれが自分の幸せというのなら、良い悪いはコメントしないが本人がそれを選択したということかもしれない。しかし、過労死するなら、病気になるなら、嫌だという場合、別のとこならそうならなかったのか、もっとひどくなかったかという問題はあるが、そんなところに就職したのに世間的に見栄えが良いところに就職したから優秀だなんて言えるだろうか。先のことを見通せるのかという問題はあるだろうが。
 別に過労死したり仕事で病気になった人を侮辱するつもりはありません。まだそうなっていない人がどう幸せになるかのための考察です。

能力の評価基準ー仕事に関して

単なる従業員としてどれだけ活躍していても評価しない。それは、自分の作業をうまくやっていても、部長とか上の役職にいても評価しない。なぜなら、それは作られた組織に入って組織の方針に従って動いているだけだからである。組織がなくても、自分で何かできるのかという問題がある。別の組織に転職しても、それは組織という箱を変えただけで、別の場所で組織の方針に従って動くわけである。従業員でどんなに自分の作業をうまくしていても、上の役職にいても、そんなにすごい人なら、組織の方針に合わせてではなく自分で何かを始めれば自由度は上がるだろうし、作業は自分で何かを始めてもするわけだし、自分がその活動で上のポジションになるわけだし、収入だって自分がすごいから高いのだったら自分で始めても高い収入を得ることができることになるのではなかろうか。要するに、すごくない、そういう可能性が大いにあるであろう。組織に属させてもらえなければ困る、という可能性は大いにあるのではなかろうか。従業員でも、自分で何かをするのを組織でやっているという状態に近いので話は別ということもあるかもしれないが。
 小さなことでもいい。獲得した金額は少なくてもいい。別に収入を得ていなくても誰かの役に立っていればいい、それをどう収入を得る形に変えるかを考えればいいわけだ。組織の従業員ではなく、自分で、自分でというイメージだけれども共同でというのでもいい、これも自分でに含めよう、自分で何かしている人、それこそ高く評価するに値するだろう。別に今は成功していると思っていなくてもいいのだ、成功するまでの過程かもしれないのだから。そもそも、成功か失敗かの評価は感性の問題ではなかろうか。
 組織に属しながら何かするというのもあるだろう。

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