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社会問題研究所

社会現象の考察。政治、経済、科学、文化など。  このサイトはリンクフリーです。

今のような学校はいらない

これから書く内容な一般論でだが、今のような学校は不要だと思う。まず、習っている内容が身についていない。学校で習っても、習い事で習っても、どこで習っても、習っている内容ができるようにならないのなら、そんなの意味がないだろう。では、自由に物事を考える学問、大学を想定しての話だが、本当に自由に考えるのであれば、その考えた内容を成績評価するのはおかしい。自由に考えた内容をある大学教員が評価するってそれって自由なのですか、自由でないですよねっと思う。自由に考えるのは学校と関係なく自分ですればすむ話だ。

 さらに自由に学問という話だが、ハラスメントで学生が死亡する場合、ようするに学校に殺されたという場合もあるだろう。これでどこが学問の自由なのかさっぱり分からない。大学の自治とは、客から金を集め、学生を死に追い込もうが、セクハラをしようが大学教員の自由で法律は適用されない治外法権を目指す、そういう自治で、それに加えそういう学問の自由、それを大学は目指していると考えることができるであろう。女子学生に入学許可をする目的は、性風俗店に行かなくても無料で好きにできる対象を確保するのが目的ではないかとも考えることができるであろう。大学教員に何をされても黙っている、警察に被害を訴えないそれが大学が目指す理想の大学の姿であるかもしれない。こんな大学に金を払って行く価値があるのだろうか。

 学校って金を払って、もっというなら無料でも行く価値のないところになっているだろう。三年間学校に行って数学ができるようにならずに代わりに白の下着を身につける技術を獲得する、白の下着でなければならない学校があるらしいが、将来、例えば大学に入り風俗嬢になるための訓練であろうか。

 こんな学校に将来奨学金を返済しないといけないと思いながら行くのは苦痛にならないのかと思う。
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弁護士は警戒すべき対象かもしれない

弁護士には悪い弁護士がいる。弁護士に関する悪い情報からして、弁護士と聞くと、信用できるとか難しい試験に受かったであろう偉い人とかそんな評価ではなく、むしろ、被害を受けないか警戒すべき存在かもしれない。弁護士による被害をもし自分が受けたとなるとたまったものではないだろう。

 弁護士にもし関わったら、法律知識を利用してわなにはめたりとか、金をとる方法を練っていたりとかして被害を受けないかそこのところはどうだろうか。弁護士に関する悪い情報からして、もはやどんな弁護士がいるか、とんでもない弁護士がいるかもしれないと思っておいた方が安全な気がする。例えば、弁護士とデートをすると、そこからセクハラだとかそういうわなにはめて、金を請求してきたりとかそんなこと起こらないだろうか、そういうことを思ったりもする。弁護士は本当に警戒すべき対象のように思う。法律を使って何をしてくるか分からない、そう思えてくるのが弁護士に関する感想である。

 弁護士をどう考えるか、それは一人一人の問題だ。

お金を使う技術

お金を持っても、それが必ずしもいいこととは限らない。例えば、化粧品による健康被害をもし受けたら、金がなければ買えなかったわけだ。仮に賠償金をもらっても、健康の方が賠償金よりも大切だと私は思う。医療によって死んだ人も、金がなければその医療を受けずにすんだとなるかもしれない。このように、金がない方が良かったとなるかもしれないことを考えることができるのではなかろうか。

 もちろん、お金があればあんな有意義なことができるのに残念となる場合もあり得るだろう。従って、お金を持っても、いかに有効利用する能力があるかが重要ポイントとなってくるのではなかろうか。

 お金を持っていること自体、安心感とか、信用につながることもあるかもしれない。しかし、泥棒に狙われるかもしれないということも考えることができるだろう。

 お金持ちが寄付したということがあるかもしれないが、それはどのような狙いだろう。純粋な思いかもしれないし、税金対策が何かあるのかもしれないし、良い人のように見せる作戦かもしれないし、良いイメージのすることに自分の名前をつけてこの人のおかげでこれがありますとしたいのかもしれない。

 寄付した先にお金をどう使って物事を実現させるかは任せる場合、自分でそのお金を使い実際に自分が良いと思っていることに関わってやっていくわけではない。すると、自分の思うようになるかという問題があるし、結局自分ではそのお金を有効利用せずに誰かに目的を決めたとしても渡すことになり、自分で完全に使っていることにはならないだろう。能力がないのか時間がないのかその他何にしろ、自分でお金を完全には有効利用しきれていないわけだ。

 それぞれの人、一人一人いったいいくらあれば幸せに暮らすことができるのだろうか。

従業員によるインターネットへの不適切投稿

従業員によるインターネットへの不適切投稿、これはその組織の経営陣に経営能力がないということになる。使い捨て労働とか、賃金を安くするとか、教育を少なくするとか、そういう方向にすると、そういう労働になる可能性がある、個々の場合にその中でどれか当てはまるものがあるかどうかは知らないが。どういう条件で労働していたのかは知らないが、労働と関連してインターネットに不適切な投稿をするようなそういう働かせ方をしていたわけである。結果がそういうことだ。
 たとえインターネットへ不適切投稿をする従業員が悪かったとしても、従業員だけを非難していると、何か失敗したらどんどん従業員が責められる社会になる可能性がある。例えば、学校教員がプールの水の閉め忘れを弁償、失敗して弁償、こればもっと進むと即免職とかさらに謝罪広告を自費で掲載しろという社会になるかもしれない。そして、その感覚が他の仕事にも及ぶ可能性がある。
 経営陣が従業員によるインターネットへの不適切投稿が起こるように経営しているわけだ。経営陣に責任があるのだ。

すごいところに就職

過労死した人を侮辱するつもりはない、過労死でなくても仕事で病気になったとかでも侮辱するつもりはない。しかし、そんなすごいところに就職した、すなわち世間的に見栄えが良いところに就職したとしても、それがそうなってもそこへ行きたかったそれが自分の幸せというのなら、良い悪いはコメントしないが本人がそれを選択したということかもしれない。しかし、過労死するなら、病気になるなら、嫌だという場合、別のとこならそうならなかったのか、もっとひどくなかったかという問題はあるが、そんなところに就職したのに世間的に見栄えが良いところに就職したから優秀だなんて言えるだろうか。先のことを見通せるのかという問題はあるだろうが。
 別に過労死したり仕事で病気になった人を侮辱するつもりはありません。まだそうなっていない人がどう幸せになるかのための考察です。

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