忍者ブログ

社会問題研究所

社会現象の考察。政治、経済、科学、文化など。  このサイトはリンクフリーです。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

従業員とは 従業員への評価 健康 その他

就職活動で採用側にひどい対応を取られた人もいるかもしれない。では、従業員はすごいのか。従業員はその組織の方針の枠内で動いていると基本的に考えてよいだろう。本当にすごいのだったら自分で何かするのではなかろうか。中小企業の経営者なら会社が潰れるとともに自己破産という条件の人がいるであろう。そういう可能性もあるなかで自分が責任も負担し、一方で自分の大きな裁量で動くという方針、それをしない人が従業員と基本的に考えてよいだろう。それで果たして本当にすごい人なのか。しかも、実際従業員をしているなかでパワハラなどを受けている人かもしれない。従業員が採用活動で仕事への不満や優越感に浸るためなどから、弱い立場の相手だと思って、本当に弱い立場なのかは知らないが、ひどいことをするのかもしれない。
 中小企業の経営者にしたって、一般論で、中小企業なんてちょっとしたことで潰れる可能性があるだろうし、どんなに偉そうにしていても、潰れた結果自己破産になる人かもしれない。そういう人が、実際どうかは知らないが、相手を立場が弱いと判断してひどいことをするケースがあるのかもしれない。それってくだらないことをする人と言えるかもしれない。
 従業員をしていて、偉そうにしていても、その仕事ってどれだけすごいのか疑問ということがあるだろう。金融、それのせいで被害を受けている人もいるだろうし金融自体に意味があるわけではないし、小売業、欲しい人は生産者からの流通が必要だろうが所詮生産者から消費者の近くに持っていくというプロセスにすぎないし、物と言っても余っているし、学校って習っている人ができるように指導できていない。医療なんか本当はこんなにたくさん必要なくできるのかもしれない。そうだったら、医療だけでなくそのためのメーカーや保険も含め、本当はもっと少なくでき、その従業員をしていたからってそんなにすごい人なのってことになるかもしれない。医療のせいで被害を受け、そんなのない方がよかったという人もいるだろう。従業員で仕事をしていますと言っても、実際それって役立っているのかむしろ有害かもしれない問題があり、役立っていても、作業自体そんなすごいものではありませんということかもしれないだろう。従業員をしている人が弱者と相手を思ってひどいことをしてもそのレベルの人がやっていることかもしれない。
 健康に関して、もちろん、生まれつき病気になってしまう人もいるかもしれない。しかし、自分の生活が病気になるような生活で病気になっている人もいるであろう。病気になる生活を避けている人もいるであろう。歳をとればこれくらいの病気になるのは仕方ないかなと納得できる健康状態ということも含め、一概には言えないが、納得のいく健康状態にするのも実力の場合もあるかもしれない。
 とりあえず、今、生きているのは、結果的に自分がそうできているわけで、少なくとも実力が自分にはあると言ってよいのではなかろうか。なお、これは今生きていない人に対する評価についていかなるコメントをするものではありません。
PR

「社会的に」が意味すること

社会的に優れている、社会的に評価が高い、社会的に幸せ、社会的に楽しい、のように「社会的に」とは、どういうことだろうか。

 「社会的に」という時、それは自分の基準ではなく誰かが作った「社会的」な基準ではなかろうか。ということは、社会的に良いイメージの方向の内容に自分が当てはまろうと思ったら、誰かが作った「社会的」な基準に合わせることになるのではなかろうか。もちろん、その基準がたまたま自分の基準と一致することもあるかもしれない。また、例えば、犯罪をしないことは社会的に良いことで、社会的に良いイメージの方向の内容に合わせることを、少なくとも全否定するつもりはない。しかし、「社会的に」という時、それは自分の本心ではなく、他者に作られたものに従属することになる場合があるのではなかろうか。

 さて、例えば、社会的に優れていることを目指すということを考えた時、それが本当にやりたいことかどうかという問題がある。本心違うけれど社会的に優れていることを目指す場合、自分の思いとは異なる価値観に合わせることになる。社会的に幸せ、楽しいといっても、楽しいかどうかなんて本人がどう思うかの話で、自分が幸せなら、楽しければ、それが社会的に幸せかどうか楽しいかどうかなんてどうでもいいことだろう。ある人が他人に、私は楽しいです、楽しくありませんと言っても、嘘かもしれず、本当のことは本人がどう思っているかだろう。昨日言ったのは嘘で実は幸せなのが本当なのだと言った人に、昨日幸せでないと言ったから嘘だあなたは今不幸せなのが本当だなんて言ってみても、本人が幸せと思うかどうかの問題で、本当のところ幸せかどうかは本人が知っている、だから今日幸せといったこと自体が本当かどうか分からないことになるだろう。

 社会的に楽しい、幸せなんてことを目指しても仕方がなく、それは他者に作られたものに従属することであり、コントロールされることであり、支配されることであり、自分が楽しいか幸せかどう思うかが重要だろう。

 社会的に優れた芸術といっても芸術なんて自分がどう思うかだろうし、歴史にでてきている優れている何かといっても、歴史にでてきたから優れているのかということや、歴史なんか学校の教科書に仮に嘘を書けば問題集やテストが用意されていて、成績や入試の合否があって、それが事実のように考えられるコミュニティーができることになるだろう。学校なんか、良い学校とかいって、「社会的に」の例になるだろう。「社会的に」良い学校に行ったのを誇りに思うことも、自分が違うからといって学校の成績が良くてもとか言って何かの機会に嫌がらせを言ってみたり、それは「社会的に」にとらわれていることになるだろう。ただ、現実問題同じ学校に行くなら見栄えがいい方の学校に行った方が得かもしれないが、「社会的に」にとらわれないのは、行ったからといって誇りに思わず、行けなかったからといってねたんだり、心からしないこと、自分の心がそういう状態だということだろう。

 基本的に「社会的に」なんてことはくだらないことだろう。

学習塾は必要か?

学習塾は必要かということについて考えてみる。

授業を聞きたいのだったら、
YouTubeに無料でみることができる動画がある。
インターネット塾がある。
だから塾までわざわざ行かなくても授業を受けることができる。
しかも、これだったら好きな時に、好きな回数、好きな部分を聞くことができるのではなかろうか。(この部分は契約条件によるだろう。)
分からない部分の授業を受けたいのだったら、YouTubeやインターネット塾という選択肢はどうかというのがあるだろう。

学習教材だったら、
学校が指定した本とか、本屋に売ってある本があるだろう。
塾の教材の方が良い悪い変わらない、それは自分がどう考えるかだろう。

費用については、
YouTubeやインターネット塾の方が安い場合、費用という点では良いだろう。

学習の成果については、
乗り物に乗って時間を使って塾まで行っても、そのことが例えば漢字を覚えることにはならないだろう。
塾まで行く時間を勉強に使ってはどうか。

生活のリズムについては、
塾まで行くと生活のリズムがつくと思う人もいるかも知れないが、学校に行っている場合、それだけで既に予定が埋まっていて、生活のリズムができているのではなかろうか。
さらに、習い事や部活動をしている場合、もっと予定が埋まっているのではなかろうか。
そこへ決められた時間に塾へ行ってとなると予定でスケジュールが埋まって大変ではなかろうか。
だったら、好きな時間に映像授業を受けるのはどうだろうか。そっちの方が自分に合っているということはないだろうか。

嫌がらせについて、
塾に限らず学校でもだが、嫌がらせか犯罪か何かはおいておくとしても、相手が子供ということもあって、塾講師なり教員なり事務職員なり、塾・学校から不当な行為あるいは不当だと自分が思うことを受けるかもしれないという雰囲気がしないだろうか。
それに比べてYouTubeやインターネット塾だったらどうだろうか、自分がどう思うかだろう。

塾まで行くという選択肢を使うにしても、
大量にその選択肢をとるのではなく、期間限定とか、少しだけとかそういう可能性もあるのではなかろうか。

今のような学校はいらない

これから書く内容な一般論でだが、今のような学校は不要だと思う。まず、習っている内容が身についていない。学校で習っても、習い事で習っても、どこで習っても、習っている内容ができるようにならないのなら、そんなの意味がないだろう。では、自由に物事を考える学問、大学を想定しての話だが、本当に自由に考えるのであれば、その考えた内容を成績評価するのはおかしい。自由に考えた内容をある大学教員が評価するってそれって自由なのですか、自由でないですよねっと思う。自由に考えるのは学校と関係なく自分ですればすむ話だ。

 さらに自由に学問という話だが、ハラスメントで学生が死亡する場合、ようするに学校に殺されたという場合もあるだろう。これでどこが学問の自由なのかさっぱり分からない。大学の自治とは、客から金を集め、学生を死に追い込もうが、セクハラをしようが大学教員の自由で法律は適用されない治外法権を目指す、そういう自治で、それに加えそういう学問の自由、それを大学は目指していると考えることができるであろう。女子学生に入学許可をする目的は、性風俗店に行かなくても無料で好きにできる対象を確保するのが目的ではないかとも考えることができるであろう。大学教員に何をされても黙っている、警察に被害を訴えないそれが大学が目指す理想の大学の姿であるかもしれない。こんな大学に金を払って行く価値があるのだろうか。

 学校って金を払って、もっというなら無料でも行く価値のないところになっているだろう。三年間学校に行って数学ができるようにならずに代わりに白の下着を身につける技術を獲得する、白の下着でなければならない学校があるらしいが、将来、例えば大学に入り風俗嬢になるための訓練であろうか。

 こんな学校に将来奨学金を返済しないといけないと思いながら行くのは苦痛にならないのかと思う。

弁護士は警戒すべき対象かもしれない

弁護士には悪い弁護士がいる。弁護士に関する悪い情報からして、弁護士と聞くと、信用できるとか難しい試験に受かったであろう偉い人とかそんな評価ではなく、むしろ、被害を受けないか警戒すべき存在かもしれない。弁護士による被害をもし自分が受けたとなるとたまったものではないだろう。

 弁護士にもし関わったら、法律知識を利用してわなにはめたりとか、金をとる方法を練っていたりとかして被害を受けないかそこのところはどうだろうか。弁護士に関する悪い情報からして、もはやどんな弁護士がいるか、とんでもない弁護士がいるかもしれないと思っておいた方が安全な気がする。例えば、弁護士とデートをすると、そこからセクハラだとかそういうわなにはめて、金を請求してきたりとかそんなこと起こらないだろうか、そういうことを思ったりもする。弁護士は本当に警戒すべき対象のように思う。法律を使って何をしてくるか分からない、そう思えてくるのが弁護士に関する感想である。

 弁護士をどう考えるか、それは一人一人の問題だ。

意見

自分が評価すれば、評価した対象の社会での影響力・価値が上がる。どう評価するかは基本的に自分次第。 個人の力が弱いのは、経済的基盤が原因の一つ。良い店や、小さな店で買い、そこへお金が流れるようにすれば、社会が良くなったり、個人の経済的基盤が強くなって各個人の力が強くなるであろう。

ブログ内検索

このエントリーをはてなブックマークに追加