社会的に優れている、社会的に評価が高い、社会的に幸せ、社会的に楽しい、のように「社会的に」とは、どういうことだろうか。
「社会的に」という時、それは自分の基準ではなく誰かが作った「社会的」な基準ではなかろうか。ということは、社会的に良いイメージの方向の内容に自分が当てはまろうと思ったら、誰かが作った「社会的」な基準に合わせることになるのではなかろうか。もちろん、その基準がたまたま自分の基準と一致することもあるかもしれない。また、例えば、犯罪をしないことは社会的に良いことで、社会的に良いイメージの方向の内容に合わせることを、少なくとも全否定するつもりはない。しかし、「社会的に」という時、それは自分の本心ではなく、他者に作られたものに従属することになる場合があるのではなかろうか。
さて、例えば、社会的に優れていることを目指すということを考えた時、それが本当にやりたいことかどうかという問題がある。本心違うけれど社会的に優れていることを目指す場合、自分の思いとは異なる価値観に合わせることになる。社会的に幸せ、楽しいといっても、楽しいかどうかなんて本人がどう思うかの話で、自分が幸せなら、楽しければ、それが社会的に幸せかどうか楽しいかどうかなんてどうでもいいことだろう。ある人が他人に、私は楽しいです、楽しくありませんと言っても、嘘かもしれず、本当のことは本人がどう思っているかだろう。昨日言ったのは嘘で実は幸せなのが本当なのだと言った人に、昨日幸せでないと言ったから嘘だあなたは今不幸せなのが本当だなんて言ってみても、本人が幸せと思うかどうかの問題で、本当のところ幸せかどうかは本人が知っている、だから今日幸せといったこと自体が本当かどうか分からないことになるだろう。
社会的に楽しい、幸せなんてことを目指しても仕方がなく、それは他者に作られたものに従属することであり、コントロールされることであり、支配されることであり、自分が楽しいか幸せかどう思うかが重要だろう。
社会的に優れた芸術といっても芸術なんて自分がどう思うかだろうし、歴史にでてきている優れている何かといっても、歴史にでてきたから優れているのかということや、歴史なんか学校の教科書に仮に嘘を書けば問題集やテストが用意されていて、成績や入試の合否があって、それが事実のように考えられるコミュニティーができることになるだろう。学校なんか、良い学校とかいって、「社会的に」の例になるだろう。「社会的に」良い学校に行ったのを誇りに思うことも、自分が違うからといって学校の成績が良くてもとか言って何かの機会に嫌がらせを言ってみたり、それは「社会的に」にとらわれていることになるだろう。ただ、現実問題同じ学校に行くなら見栄えがいい方の学校に行った方が得かもしれないが、「社会的に」にとらわれないのは、行ったからといって誇りに思わず、行けなかったからといってねたんだり、心からしないこと、自分の心がそういう状態だということだろう。
基本的に「社会的に」なんてことはくだらないことだろう。
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