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社会問題研究所

社会現象の考察。政治、経済、科学、文化など。  このサイトはリンクフリーです。

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「社会的に」が意味すること

社会的に優れている、社会的に評価が高い、社会的に幸せ、社会的に楽しい、のように「社会的に」とは、どういうことだろうか。

 「社会的に」という時、それは自分の基準ではなく誰かが作った「社会的」な基準ではなかろうか。ということは、社会的に良いイメージの方向の内容に自分が当てはまろうと思ったら、誰かが作った「社会的」な基準に合わせることになるのではなかろうか。もちろん、その基準がたまたま自分の基準と一致することもあるかもしれない。また、例えば、犯罪をしないことは社会的に良いことで、社会的に良いイメージの方向の内容に合わせることを、少なくとも全否定するつもりはない。しかし、「社会的に」という時、それは自分の本心ではなく、他者に作られたものに従属することになる場合があるのではなかろうか。

 さて、例えば、社会的に優れていることを目指すということを考えた時、それが本当にやりたいことかどうかという問題がある。本心違うけれど社会的に優れていることを目指す場合、自分の思いとは異なる価値観に合わせることになる。社会的に幸せ、楽しいといっても、楽しいかどうかなんて本人がどう思うかの話で、自分が幸せなら、楽しければ、それが社会的に幸せかどうか楽しいかどうかなんてどうでもいいことだろう。ある人が他人に、私は楽しいです、楽しくありませんと言っても、嘘かもしれず、本当のことは本人がどう思っているかだろう。昨日言ったのは嘘で実は幸せなのが本当なのだと言った人に、昨日幸せでないと言ったから嘘だあなたは今不幸せなのが本当だなんて言ってみても、本人が幸せと思うかどうかの問題で、本当のところ幸せかどうかは本人が知っている、だから今日幸せといったこと自体が本当かどうか分からないことになるだろう。

 社会的に楽しい、幸せなんてことを目指しても仕方がなく、それは他者に作られたものに従属することであり、コントロールされることであり、支配されることであり、自分が楽しいか幸せかどう思うかが重要だろう。

 社会的に優れた芸術といっても芸術なんて自分がどう思うかだろうし、歴史にでてきている優れている何かといっても、歴史にでてきたから優れているのかということや、歴史なんか学校の教科書に仮に嘘を書けば問題集やテストが用意されていて、成績や入試の合否があって、それが事実のように考えられるコミュニティーができることになるだろう。学校なんか、良い学校とかいって、「社会的に」の例になるだろう。「社会的に」良い学校に行ったのを誇りに思うことも、自分が違うからといって学校の成績が良くてもとか言って何かの機会に嫌がらせを言ってみたり、それは「社会的に」にとらわれていることになるだろう。ただ、現実問題同じ学校に行くなら見栄えがいい方の学校に行った方が得かもしれないが、「社会的に」にとらわれないのは、行ったからといって誇りに思わず、行けなかったからといってねたんだり、心からしないこと、自分の心がそういう状態だということだろう。

 基本的に「社会的に」なんてことはくだらないことだろう。
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弁護士は警戒すべき対象かもしれない

弁護士には悪い弁護士がいる。弁護士に関する悪い情報からして、弁護士と聞くと、信用できるとか難しい試験に受かったであろう偉い人とかそんな評価ではなく、むしろ、被害を受けないか警戒すべき存在かもしれない。弁護士による被害をもし自分が受けたとなるとたまったものではないだろう。

 弁護士にもし関わったら、法律知識を利用してわなにはめたりとか、金をとる方法を練っていたりとかして被害を受けないかそこのところはどうだろうか。弁護士に関する悪い情報からして、もはやどんな弁護士がいるか、とんでもない弁護士がいるかもしれないと思っておいた方が安全な気がする。例えば、弁護士とデートをすると、そこからセクハラだとかそういうわなにはめて、金を請求してきたりとかそんなこと起こらないだろうか、そういうことを思ったりもする。弁護士は本当に警戒すべき対象のように思う。法律を使って何をしてくるか分からない、そう思えてくるのが弁護士に関する感想である。

 弁護士をどう考えるか、それは一人一人の問題だ。

お金を使う技術

お金を持っても、それが必ずしもいいこととは限らない。例えば、化粧品による健康被害をもし受けたら、金がなければ買えなかったわけだ。仮に賠償金をもらっても、健康の方が賠償金よりも大切だと私は思う。医療によって死んだ人も、金がなければその医療を受けずにすんだとなるかもしれない。このように、金がない方が良かったとなるかもしれないことを考えることができるのではなかろうか。

 もちろん、お金があればあんな有意義なことができるのに残念となる場合もあり得るだろう。従って、お金を持っても、いかに有効利用する能力があるかが重要ポイントとなってくるのではなかろうか。

 お金を持っていること自体、安心感とか、信用につながることもあるかもしれない。しかし、泥棒に狙われるかもしれないということも考えることができるだろう。

 お金持ちが寄付したということがあるかもしれないが、それはどのような狙いだろう。純粋な思いかもしれないし、税金対策が何かあるのかもしれないし、良い人のように見せる作戦かもしれないし、良いイメージのすることに自分の名前をつけてこの人のおかげでこれがありますとしたいのかもしれない。

 寄付した先にお金をどう使って物事を実現させるかは任せる場合、自分でそのお金を使い実際に自分が良いと思っていることに関わってやっていくわけではない。すると、自分の思うようになるかという問題があるし、結局自分ではそのお金を有効利用せずに誰かに目的を決めたとしても渡すことになり、自分で完全に使っていることにはならないだろう。能力がないのか時間がないのかその他何にしろ、自分でお金を完全には有効利用しきれていないわけだ。

 それぞれの人、一人一人いったいいくらあれば幸せに暮らすことができるのだろうか。

従業員によるインターネットへの不適切投稿

従業員によるインターネットへの不適切投稿、これはその組織の経営陣に経営能力がないということになる。使い捨て労働とか、賃金を安くするとか、教育を少なくするとか、そういう方向にすると、そういう労働になる可能性がある、個々の場合にその中でどれか当てはまるものがあるかどうかは知らないが。どういう条件で労働していたのかは知らないが、労働と関連してインターネットに不適切な投稿をするようなそういう働かせ方をしていたわけである。結果がそういうことだ。
 たとえインターネットへ不適切投稿をする従業員が悪かったとしても、従業員だけを非難していると、何か失敗したらどんどん従業員が責められる社会になる可能性がある。例えば、学校教員がプールの水の閉め忘れを弁償、失敗して弁償、こればもっと進むと即免職とかさらに謝罪広告を自費で掲載しろという社会になるかもしれない。そして、その感覚が他の仕事にも及ぶ可能性がある。
 経営陣が従業員によるインターネットへの不適切投稿が起こるように経営しているわけだ。経営陣に責任があるのだ。

すごいところに就職

過労死した人を侮辱するつもりはない、過労死でなくても仕事で病気になったとかでも侮辱するつもりはない。しかし、そんなすごいところに就職した、すなわち世間的に見栄えが良いところに就職したとしても、それがそうなってもそこへ行きたかったそれが自分の幸せというのなら、良い悪いはコメントしないが本人がそれを選択したということかもしれない。しかし、過労死するなら、病気になるなら、嫌だという場合、別のとこならそうならなかったのか、もっとひどくなかったかという問題はあるが、そんなところに就職したのに世間的に見栄えが良いところに就職したから優秀だなんて言えるだろうか。先のことを見通せるのかという問題はあるだろうが。
 別に過労死したり仕事で病気になった人を侮辱するつもりはありません。まだそうなっていない人がどう幸せになるかのための考察です。

意見

自分が評価すれば、評価した対象の社会での影響力・価値が上がる。どう評価するかは基本的に自分次第。 個人の力が弱いのは、経済的基盤が原因の一つ。良い店や、小さな店で買い、そこへお金が流れるようにすれば、社会が良くなったり、個人の経済的基盤が強くなって各個人の力が強くなるであろう。

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