法学部や経済学部の教員は何のために存在するのであろうか。優れた人が政治に対して意見を言うという形式をとるために存在するのではなかろうか。政治の権力者は、自分の政策を支持するような意見を述べる大学の教員を優れた能力を持ったその分野の人も私に賛成していますよという形式をとるために呼んでくるのではなかろうか。
もちろん、反対の意見の人も大学の教員のなかには存在するであろう。しかし、その人はその人で、国民の中にも政策に反対の人もいるであろうから、そういうグループに近い意見を言う人もいますよということで存在してもらって、議論をしたという形を作り、政策を進めることになるのではなかろうか。
大学の教員は大学では学生に教えるということで、能力のある人という形をとる。そして、学問の自由とかいう話もでてくる。しかし、学問の自由だって社会のありようでどの程度大学教員にとって自由かという問題があるが、もっとここで重視したいことは学生に学問の自由があるのかということである。成績をつけるのは教員であるし、授業を運営しているのも教員である。学生に本当に学問の自由、考え方の自由なんてあるのだろうか。
法学部や経済学部の教員は何のために存在するのかということであるが、政策に反対の教員も含めて政治を進めるうえで利用するためではなかろうか。そのために、すごい人だという形をとるために学生に教えているという作業をする。
本当に自由に思考したければ、大学教員や評論家や何かの賞のようなものだから優れているという評価をするのではなく、自分がどう思うかということを重視すべきであろう。
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