何が優れているかについて、その社会の常識は異なるだろう。ある場所からある場所へ行くと評価が変わったり、大きく社会の価値観が転換することもあるだろう。また、その社会の常識とは異なる価値観の人もいるだろう。昔優れたとされたことが最悪のものと常識が変わることはあるだろうし、そうなっても今は最悪が常識でも昔のままの優れているという価値を持つ人もいるだろう。例えば政治の世界なんかで考えると良いかもしれない。
では実際何が優れているか、それはその人がそう思うからその人にとって優れていると認識されるということだろう。その意見が多数派か少数派かはまた別の問題だろう。例えば、この食べ物は健康に悪い、それが事実だとして、しかし、それは事実だと思ったからその人にとって事実と認識されるわけで、健康に良いと思い込んでいる人には健康に良いと認識される。食べてみて健康を害しても、健康に良いと思い込んでいる人は別の要因で健康を害したと解釈するかもしれないし、本当の健康を害した原因を全て100パーセント正確に示すことができるか疑問である。例えば、他の要因もいくらか関わっていないか、全くないと言い切れるかという問題があるだろう。
政治とか行政とかそれと同グループの価値を常識として流す人は、あることを正しいとして流しているわけだ。ある人がそう認識したらそう思うわけだ。
何が優で何が劣か、要するに各自それぞれがレッテルをはっているということだ。良い評価であれ悪い評価であれ、レッテルをはってそう思っているわけだ。
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