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社会問題研究所

社会現象の考察。政治、経済、科学、文化など。  このサイトはリンクフリーです。

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専門外の内容を述べることについて

専門外のことを述べる人がいるであろう。たとえ、ある分野については詳しくても、他の分野にはそれが当てはまるとは限らない。専門の内容だって今回話している内容が優れている内容とは限らない。まして専門外のこととなると、一般人とたいしてかわらなかったりするであろう。ある集まりで話をする場合でも、その集まりの目的としていることに関しては詳しい人でも、別の集まりすなわち別の場所のことを話しだすと、素人だったりその場所のことに関して知らないことがあったりするであろう。もしかすると、価値観が違い、価値観が違うと話の内容も違ってくるかもしれない。
 だからある分野の専門家とか、賞を受賞したとか、そういうことに惑わされず、自分でよく考えることが大切であろう。
 ここで、違った話題になるが、社会運動をする際ある分野の専門家とか有名人が専門外のことに取り組むことがある。専門外なのだから、その分野に関しては一般人とたいしてかわらないと思われる。しかし、有名だということで社会に一定の影響を与えるかもしれないということはいえるであろうし、現実問題としてそれならそういう人が取り組むと一定の意味があるということになるのかもしれない。
 自分でよく考えることが大切ではあるが、現実問題として社会へ一定の影響を与えるかもしれないという点で、ある分野の専門家とか有名人の専門外への社会運動は意味があるということになるのかもしれない。
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法学部や経済学部の教員の役割

法学部や経済学部の教員は何のために存在するのであろうか。優れた人が政治に対して意見を言うという形式をとるために存在するのではなかろうか。政治の権力者は、自分の政策を支持するような意見を述べる大学の教員を優れた能力を持ったその分野の人も私に賛成していますよという形式をとるために呼んでくるのではなかろうか。
 もちろん、反対の意見の人も大学の教員のなかには存在するであろう。しかし、その人はその人で、国民の中にも政策に反対の人もいるであろうから、そういうグループに近い意見を言う人もいますよということで存在してもらって、議論をしたという形を作り、政策を進めることになるのではなかろうか。
 大学の教員は大学では学生に教えるということで、能力のある人という形をとる。そして、学問の自由とかいう話もでてくる。しかし、学問の自由だって社会のありようでどの程度大学教員にとって自由かという問題があるが、もっとここで重視したいことは学生に学問の自由があるのかということである。成績をつけるのは教員であるし、授業を運営しているのも教員である。学生に本当に学問の自由、考え方の自由なんてあるのだろうか。
 法学部や経済学部の教員は何のために存在するのかということであるが、政策に反対の教員も含めて政治を進めるうえで利用するためではなかろうか。そのために、すごい人だという形をとるために学生に教えているという作業をする。
 本当に自由に思考したければ、大学教員や評論家や何かの賞のようなものだから優れているという評価をするのではなく、自分がどう思うかということを重視すべきであろう。

政治家ってこんなのかもしれない

例えばある法案Aがあるとする。賛成の議員もいるかもしれないし反対の議員もいるかもしれない。与党の案で可決するであろうものでも、賛成の議員の中でも、有力者についていくために本当は反対だけど黙って賛成したり、ちょっと修正がいるとかいって自分の存在をアピールしてみたり、自分の案が取り入れられたと成果を作ってみたり、本当は賛成だけど政権が気に入らないからわざと反対してみたり、賛成だけど反対とか修正とかもっと議論が必要と主張して何か別件で自分の意見と聞かせようという考えがあったり、個人的な好き嫌いとか嫉妬とかそんなのが法案への態度に表れたり、そういうことがあるかもしれない。与党の中でも、大方の方向性は同じだけれどある部分がちょっと違うとかそういうことが大きな溝を生んだりするのかもしれない。野党だってあるとうのなかで、方向性はほぼ同じでもちょっと違うところがあるというそこの部分が大きな溝を作ったりすることがあるかもしれない。同じような主張をしている党でも一つの党として一緒にやっていくことができないことがあるかもしれない。自分の考え方だけでなく、様々な要素がからみ、法案への態度になって表れるのかもしれない。

政治とは

政治はどんなにきれいごとを言っても選挙である分類の人の利益を代表する人が、富の配分の奪い合いをする場であろう。選挙によってどの人が政治家になれば自分の目指す社会に近いかなんて人によるであろう。政治はどんな議論をしていようが結局のところどの人に多くの富を与えるか、どのくらいの富をあたえるか、そういうことを決める場であろう。
 選挙権がないときには政治家を自分で選ぶことができなかった。しかし、選挙権をもつと政治家を選ぶことができる。少なくとも自分の意思を示すことはできる。
 有名人とかがなんと言っていようが、自分のよいと思う社会はなにか、誰がそれを実現してくれそうな候補者かをよく考えた方がよいであろう。社長と従業員とか、高収入者と低収入者とか、人によってよいと思う社会は違うであろう。
 自分の票を大切にすべきである。選挙で投票することは社会参加である。

どんな英語を使えるべきか

英語といってもアメリカ英語とかイギリス英語とかいろいろな英語があるだろう。どんな英語を使える必要にすべきであろうか。それは、自分が必要な英語を使えるようにすべきであろう。例えば、英語がネイティブでない国に行って英語を話す場合、そこの国の人にわかる英語でなければならない。それでなければコミュニケーションが成り立たない。いくらアメリカ英語とかイギリス英語とかを話してみたところで、目的の人と意思疎通できなければ意味がない。

 言語とは、言語だけで存在しているのではなく、言語で表現する内容をともなうものであろう。もっといえば、内容を伝えたり受け取ったりするための道具であろう。必要なことができればそれでかまわないわけである。

 外国語を使い、自分の表現や理解することの範囲が広がると、世界がひろがって楽しいのではなかろうか。

意見

自分が評価すれば、評価した対象の社会での影響力・価値が上がる。どう評価するかは基本的に自分次第。 個人の力が弱いのは、経済的基盤が原因の一つ。良い店や、小さな店で買い、そこへお金が流れるようにすれば、社会が良くなったり、個人の経済的基盤が強くなって各個人の力が強くなるであろう。

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