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社会問題研究所

社会現象の考察。政治、経済、科学、文化など。  このサイトはリンクフリーです。

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学習塾は必要か?

学習塾は必要かということについて考えてみる。

授業を聞きたいのだったら、
YouTubeに無料でみることができる動画がある。
インターネット塾がある。
だから塾までわざわざ行かなくても授業を受けることができる。
しかも、これだったら好きな時に、好きな回数、好きな部分を聞くことができるのではなかろうか。(この部分は契約条件によるだろう。)
分からない部分の授業を受けたいのだったら、YouTubeやインターネット塾という選択肢はどうかというのがあるだろう。

学習教材だったら、
学校が指定した本とか、本屋に売ってある本があるだろう。
塾の教材の方が良い悪い変わらない、それは自分がどう考えるかだろう。

費用については、
YouTubeやインターネット塾の方が安い場合、費用という点では良いだろう。

学習の成果については、
乗り物に乗って時間を使って塾まで行っても、そのことが例えば漢字を覚えることにはならないだろう。
塾まで行く時間を勉強に使ってはどうか。

生活のリズムについては、
塾まで行くと生活のリズムがつくと思う人もいるかも知れないが、学校に行っている場合、それだけで既に予定が埋まっていて、生活のリズムができているのではなかろうか。
さらに、習い事や部活動をしている場合、もっと予定が埋まっているのではなかろうか。
そこへ決められた時間に塾へ行ってとなると予定でスケジュールが埋まって大変ではなかろうか。
だったら、好きな時間に映像授業を受けるのはどうだろうか。そっちの方が自分に合っているということはないだろうか。

嫌がらせについて、
塾に限らず学校でもだが、嫌がらせか犯罪か何かはおいておくとしても、相手が子供ということもあって、塾講師なり教員なり事務職員なり、塾・学校から不当な行為あるいは不当だと自分が思うことを受けるかもしれないという雰囲気がしないだろうか。
それに比べてYouTubeやインターネット塾だったらどうだろうか、自分がどう思うかだろう。

塾まで行くという選択肢を使うにしても、
大量にその選択肢をとるのではなく、期間限定とか、少しだけとかそういう可能性もあるのではなかろうか。
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今のような学校はいらない

これから書く内容な一般論でだが、今のような学校は不要だと思う。まず、習っている内容が身についていない。学校で習っても、習い事で習っても、どこで習っても、習っている内容ができるようにならないのなら、そんなの意味がないだろう。では、自由に物事を考える学問、大学を想定しての話だが、本当に自由に考えるのであれば、その考えた内容を成績評価するのはおかしい。自由に考えた内容をある大学教員が評価するってそれって自由なのですか、自由でないですよねっと思う。自由に考えるのは学校と関係なく自分ですればすむ話だ。

 さらに自由に学問という話だが、ハラスメントで学生が死亡する場合、ようするに学校に殺されたという場合もあるだろう。これでどこが学問の自由なのかさっぱり分からない。大学の自治とは、客から金を集め、学生を死に追い込もうが、セクハラをしようが大学教員の自由で法律は適用されない治外法権を目指す、そういう自治で、それに加えそういう学問の自由、それを大学は目指していると考えることができるであろう。女子学生に入学許可をする目的は、性風俗店に行かなくても無料で好きにできる対象を確保するのが目的ではないかとも考えることができるであろう。大学教員に何をされても黙っている、警察に被害を訴えないそれが大学が目指す理想の大学の姿であるかもしれない。こんな大学に金を払って行く価値があるのだろうか。

 学校って金を払って、もっというなら無料でも行く価値のないところになっているだろう。三年間学校に行って数学ができるようにならずに代わりに白の下着を身につける技術を獲得する、白の下着でなければならない学校があるらしいが、将来、例えば大学に入り風俗嬢になるための訓練であろうか。

 こんな学校に将来奨学金を返済しないといけないと思いながら行くのは苦痛にならないのかと思う。

学校でいじめをしている人

学校でいじめをしている人はよく自分のしていることを考えた方が良いだろう。もし、いじめた相手が自殺してその人がいなくなったらあなたは本当に楽しいですか。まわりでいじめがあったことを知っていた人も、こんなことになるのだったら何か助けることができたかもしれないと思うのではなかろうか。その人が死んで楽しい場所になるのだろうか。いじめを隠そうとしても、発覚した時さらに大きな非難を受けるであろう。その他、民事訴訟が起きたり、刑事事件になるかもしれない。
 いじめているつもりではなかったと言っても、相手がどう思っているかはまた別の話であろう。自分のしていることをよく考えた方が良いだろう。

千葉大学は悪徳業者、解散すべき、という可能性

千葉大学は悪徳業者である。解散すべきである。学校としてふさわしくない。新規学生募集業務を中止するべきである。この大学には税金を投入すべきではない。

 千葉大学医学部の学生や研修医による女性への性犯罪に関して、学生は大学の顧客であり、事業所の顧客が犯罪を起こしたということになる。研修医は大学の従業員である。

 全体がどうなのか完全には分からないため、仮定して書いていく箇所もある。

 仮に被害者が千葉大学の学生である場合(この点は仮にであり実際どうか分かりません)、被害者は千葉大学の顧客である。仮に学校とは関係ないところであっても、従業員が顧客に学校の活動以外の場所で性犯罪を犯したことになる。仮に学校の活動の一貫とされる活動の場合、従業員が顧客に業務中あるいは業務に関連したことで性犯罪を起こしたということになる可能性がある。仮に事業所の従業員が業務中に顧客に性犯罪を犯すことがあれば、その事業所は悪質な業者ということになる可能性があるし、事業所の法的責任が問われる可能性があり、被害者へ金銭補償などを行う必要がでてくる可能性がある。仮に、本件で大学が金銭補償する必要になった場合には、このようなことに税金を使うべきではない。今回の事件は犯罪自体問題だが、性犯罪の中でも大きな件となる問題であろう。仮に、被害者が大学の顧客であった場合、従業員が顧客に大きな件となる性犯罪を行うような大学は学校としてふさわしくなく、解散すべきであり、また、新規学生募集業務を中止するべきである。

 また、大学は料金を受け取り顧客である学生に商品・サービスを提供している。仮に、従業員が逮捕された学生に犯罪を犯すように勧めていたら(この点は仮にであり実際がどうか分かりません)、学校の活動の一貫でもしあったなら、犯罪者になるための商品・サービスを提供した疑いがあることになり、異常な業者・大学ということになる。また、仮に、性犯罪を学生と共同で行い学生が性犯罪を行う推進力を得た場合も(この点は仮にであり実際がどうか分かりません)、学校の活動の一貫でもしあったなら、犯罪者になるための商品・サービスを提供した疑いがあることになり、この場合も異常な業者・大学ということになる。仮に、犯罪者になるための商品・サービスを提供行っていた場合には、学生に不正なサービスを提供したということで、この点が問題になる可能性がある。

 一般論で、従業員が問題を起こした場合、上司に監督責任が生じる可能性がある。今回は、学校の活動に関係している可能性があり、その場合には大いに上司の監督責任が問われる可能性がある。
 今回の件の場合、著者は事業所トップの責任が問われるべきであると考える。

 千葉大学は大学としてふさわしくなく、税金を投入することをやめるべきである。

学校は遠足や修学旅行を廃止すべき

学校から遠足や修学旅行を廃止すべきであろう。今の時代、遠足や修学旅行なんか、学校で行かなくでも自分で行くことができる。インターネットなどを使って自分で計画を立てて費用がいくらかかるかなどもすべて自分でやっていった方が勉強になる。どうせ親が出した金で遠足や修学旅行をしている可能性が高く、金の使い道を強制せず、自分で行きたい人と旅行したいところへ旅行すればよく、旅行自体したくないのであればそれはそれで一つの人生であろう。学校はいじめのような問題があり、そんな面白くもないところへ金を払うのはくだらないと思う人もいるかもしれない。学校の教員だって、仕事だから遠足や修学旅行に関して肯定的なコメントをしているとしたらしているだけで、なければないでそれでやるだろう。そういう仕事をカットしてしまえばよいわけである。空いた時間をどうするか、休校にするのも一つの選択肢だし、苦手なことを自習する時間にするのも一つの選択肢だろう。

 その他、授業、部活動のようなことでも、学校がしなくたって他のところでその内容をすることができるところはあるであろう。

 行事として遠足や修学旅行を行いその結果費用を親に強制すべきではないであろう。

意見

自分が評価すれば、評価した対象の社会での影響力・価値が上がる。どう評価するかは基本的に自分次第。 個人の力が弱いのは、経済的基盤が原因の一つ。良い店や、小さな店で買い、そこへお金が流れるようにすれば、社会が良くなったり、個人の経済的基盤が強くなって各個人の力が強くなるであろう。

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