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社会問題研究所

社会現象の考察。政治、経済、科学、文化など。  このサイトはリンクフリーです。

歯科医師

歯科医師が余っていると言われている。日本全国を見渡した時、都会もあれば田舎もあり、それぞれの地域で実際のところどうなのか分からない。ただ、ひとついえることは、歯科医師は世の中に必要であるということである。やはり、歯科医師にきちんとした仕事をしてもらわないと困る。

 歯科医と言えば、歯に問題が生じたときに治療ということで存在するという考え方がある。そういう面はもちろんあり、そのこと自体を否定はしない。しかし、これからの時代、歯に問題が生じる前の予防という役割を担ってもらいたい。予防により問題が生じるのを防ぐことができたらさぞかしすばらしいことであろう。誰も問題が生じて欲しいなんてことは思わないだろう。

 歯科医師過剰と言われるが、歯科医師が予防の役割を担うように歯科医療行政が取り組み、歯科医師が余っているならその歯科医師を全国民の歯の健康維持のための予防に振り向けるようにしてもらいたいものである。まだまだ予防ということで歯科医師を十分に活用しきれていない人がいるであろうから。同じお金を使うのなら、治療よりも予防に使った方が良いであろう。
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英語

 英語と言えば、学校で習う英語を思い浮かべる人もいるであろう。今も使っている人、学校で習ったけど使っていない人、学校で習ったけどほとんど分からなかった身につかなかった人、様々であろう。

 英語と言っても様々な英語があると思う。例えばアメリカ英語、アメリカ英語でも地域によって年齢とか人によって異なり一つの英語ではないであろう。イギリス英語、オーストラリア英語、アフリカの人が使う英語、インドの人が使う英語、ドイツの人話す英語、様々な英語があるであろう。ネイティブだって全ての英語が分かるわけではない。内容的の面から言えば、例えば科学英語、日本語で書かれていたって専門的内容だと全ての日本人が全ての日本語を理解できないのと同じように、英語でも専門的内容だとネイティブだって全ての英語が分かるわけではないだろう。

 英語で会話するときに重要なことは、相手の言っていることを正確に聞き取り、自分の伝えたいことを正確に伝えることである。発音とか表現が英語的とか言ってみてもこれができないと意味がないであろうし、仮にネイティブがすばらしい発音で話したって優れた表現を使おうとも、相手が理解してくれなければ会話は成り立たない。基本的なこと、これが重要である。

 文字の場合でも、書かれている文章を理解することが重要である。自分が書く場合だと、間違った英語を書くと格好が悪いというのはある。状況によれば、大問題になる場合もあるであろう。しかし、友達同士で英語の学習中と相手が分かっている場合、相手は間違いがあることを理解してやり取りしていてどんどん使っていって構わない場合もあるであろう。

 高校入試や大学入試の英語、それはそれで一つの英語である。それを良いか悪いか議論してみても、合格したければ入試の英語をできるようにするまでのはなしである。国語だって
高校入試や大学入試ででていることだけが国語ではないであろうし、理科だって高校入試や大学入試ででていることだけが理科ではないであろう。それと同じことである。

 世の中には様々な英語がある。自分の目的を達成できるように使っていくことが重要であろう。それは日本語だって同じであろう。また、世界中でネイティブか否かを問わず様々な人が英語を使っているのであるから、様々な英語がでてきて当然と思うのが合理的であろう。

権力の地位と不自由

 小泉純一郎元首相が脱原発を主張している。元自民党幹事長の小沢一郎(現在、生活の党と山本太郎となかまたち)が現在の政権とは距離を置いたことを主張している。かつては権力サイドにいた鈴木宗男は権力から離れて違う目で社会を見ているのではないだろうか。

 
小泉純一郎も小沢一郎も鈴木宗男もみな権力の地位にいた人物である。脱原発一つとって見ても、そんなにそう思うのなら、小泉純一郎が首相の時、それをすればよかったという話である。政権、行政から距離を置いてといっても、自分が権力の地位にいた時今思っていることを実現すればよかった話である。

 なぜ、権力の地位にいたときに、今思うことができなかったのであろうか。そこが肝心な点であろう。おそらく、政治家の権力の地位には実は権力はなく、様々な力によって定められた範囲の選択肢の枠内で作業を行うよう仕向けられた、代理人としての作用しかないのではなかろうか。全くもって不自由な存在なのではなかろうか。
権力の地位にある政治家をとりまく人たちから、そのように振る舞うように力がかかっているのではなかろうか。学校の入学式には入学式なりの振る舞いかたがあり、それにあわせて式が行われるのと同じように、権力の地位にある政治家にも、その地位にある政治家が振る舞うべき内容が定められているのではなかろうか。

 権力の地位にあった政治家も、そこを離れると社会が違った風に見えてくる、あるいは本当はこうしたかったということができるようになるのではなかろうか。そこで、かつてあの権力の地位にいたあの人が、もし今もその地位にいたならこんなふうにするのか疑問であるというようなことをおこなうのではなかろうか。

 権力の地位には自由はなく、定められた活動をおこなう役割が与えられているのであろう。小学校や中学校の学級代表や生徒会の役員に誰がなってもたいしてかわらないように、あらかじめ決められた作業をおこなう係という面があるのであろう。

人類の未来ー可能性

人類が将来どのような姿で存在するか、可能性を考えてみようと思う。バイオテクノロジーが進歩して、将来科学技術によって人類がどのような姿になっているかという問が考えられる。

 もちろん、遺伝子操作によって人類を改変してしまうことへ、安全性の危惧や選別につながるであろうことから反対の声がある。しかし、法規制で問題がない場所で人類への生命科学の応用により、人工的にデザインした遺伝子をもつ人間が多く誕生することはあり得るであろうし、また、生まれてしまえば一人の人として社会構成員としてともに生きていくことになる。

 人工的に遺伝子が設計された人がある程度社会に登場してくれば、それで構わないということになり、
人工的に遺伝子を設計することが当たり前になるかもしれない。

 生命科学により人類を操作することが今後どうなるか分からない。この技術は人類自体を大きく変えてしまう可能性もあるのではないか。慎重に議論すべき問題である。しかし、自分の意見を実行できる場所で実行する人もでてくるのではなかろうか

会社のみの人生

会社のみの人生はつまらないと思う。何で人生を会社のみに捧げる必要があろうか。そりゃあ自分で会社を起業して仕事をやっている人で、たとえばカレー屋をやっていて、これこそ我が人生というのであれば話は別であろう。だってそのカレー屋イコール自分の家庭に近いものであろうから。それとか大学で研究をやっていて、研究こそ我が人生で研究を死ぬまでしてやるという人とかも別であろう。
 しかしである、この仕事のために何で人生を捧げなければならないのだというのであれば、仕事は金を稼ぐ場で、後の時間は仕事は忘れてもっと他のやりたいことをするというので構わないのではないだろうか。なんで一体仕事が終わったら会社の人としかも自分の金で飲み屋へ行かなければならないのだろうか。そんなことをしたら、自分のやりたいことをする時間が失われてしまうではないか。
 仕事時間は仕事をして、それが終われば仕事を忘れて自分のやりたいことをするというので構わないのではなかろうか。日本はそうなっていないのであろうが、会社のみの人生とどっちが充実しているかということを思う。

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