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社会問題研究所

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権力の地位と不自由

 小泉純一郎元首相が脱原発を主張している。元自民党幹事長の小沢一郎(現在、生活の党と山本太郎となかまたち)が現在の政権とは距離を置いたことを主張している。かつては権力サイドにいた鈴木宗男は権力から離れて違う目で社会を見ているのではないだろうか。

 
小泉純一郎も小沢一郎も鈴木宗男もみな権力の地位にいた人物である。脱原発一つとって見ても、そんなにそう思うのなら、小泉純一郎が首相の時、それをすればよかったという話である。政権、行政から距離を置いてといっても、自分が権力の地位にいた時今思っていることを実現すればよかった話である。

 なぜ、権力の地位にいたときに、今思うことができなかったのであろうか。そこが肝心な点であろう。おそらく、政治家の権力の地位には実は権力はなく、様々な力によって定められた範囲の選択肢の枠内で作業を行うよう仕向けられた、代理人としての作用しかないのではなかろうか。全くもって不自由な存在なのではなかろうか。
権力の地位にある政治家をとりまく人たちから、そのように振る舞うように力がかかっているのではなかろうか。学校の入学式には入学式なりの振る舞いかたがあり、それにあわせて式が行われるのと同じように、権力の地位にある政治家にも、その地位にある政治家が振る舞うべき内容が定められているのではなかろうか。

 権力の地位にあった政治家も、そこを離れると社会が違った風に見えてくる、あるいは本当はこうしたかったということができるようになるのではなかろうか。そこで、かつてあの権力の地位にいたあの人が、もし今もその地位にいたならこんなふうにするのか疑問であるというようなことをおこなうのではなかろうか。

 権力の地位には自由はなく、定められた活動をおこなう役割が与えられているのであろう。小学校や中学校の学級代表や生徒会の役員に誰がなってもたいしてかわらないように、あらかじめ決められた作業をおこなう係という面があるのであろう。

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